どうも皆さんこんばんは!ダンです。
豊橋には吉田城というお城がありました。いや、今もあると言っていい…のか…?
鉄櫓(くろがねやぐら)が復元され、天下の大動脈、国道一号線を走っていると見えます。吉田城って検索すれば多分それが出てきます。
実はこの吉田城、現在発掘調査を順次進めています。
元々発掘調査をしていたわけですが、以前に様々な要因が重なって石垣が崩落しました。
そりゃそうですよ、古くは400年前から積まれていたものですし、その過程で掘ったり埋めたりを繰り返しているわけです。
しかも、途中でその場所に木が植えたり植えられたりしたもんですから、その根っこも成長しちゃったりして。
現在その箇所の修復作業を兼ねて、発掘調査を実施しているわけです。
この発掘調査は豊橋市文化財センターさんが主導となっています。
この吉田城の石垣発掘・修復作業をしているところで、新たな事実が発覚した!という事で報道発表資料が飛び込んできました。
実はその報道発表が行われた日に、報道機関向け発表会があったのですが、その時間は絶賛生放送中…。
二川宿本陣資料館の高橋学芸員とホクホクしながら話をしている最中でした。(ホクホク話の内容は昨日の記事を参照してください。)
なので、放送が終わって、即座に豊橋公園へ自転車飛ばして行ってきました。
14:00から報道向け説明会を実施します、と書いてあったのに、現場の豊橋公園に着いた時間なんと16:00前。
やっちまったー!!!とか思ったけど、僕の相手をいつも1時間ぐらいしてくれる今回の調査担当学芸員さんがいらっしゃいました。
現場作業終わった段階でしたが、お話を伺えましたし、なんなら文化財サポーターの方を交えて、3人だけの少数説明会をしてくれました。最高の時間でしたありがとうございました。
せっかくお話を伺い、写真も撮影したのでこのブログに書きたいと思います。
Twitterに書こうかと思ったんですが、140文字なんかでまとまるわけもなく…笑
間に合った…!
— やしの実FM ダン (@dan_843fm) 2022年10月18日
生放送終わって、すぐに豊橋公園へ。
報道向け説明会に行ってきました。
石垣発掘作業において、衝撃的な発見がありました∑(゚Д゚)
うーん、Twitterだと書ききれないので、明日ブログ書く! pic.twitter.com/oAXjxTMEdR
先に言います。まとまっている文章は中日新聞さんや、地元新聞さん(東日新聞さん・東愛知新聞さん)のニュースを読んだ方が良いです(笑)
僕は先に言いましたからね?それでも付いてきてくれる人はぜひ付いてきてください。
という事で、ここからはまとまってないかもしれないけど、読んでください。
まず、何が見つかったかという事ですが、
『埋め殺しの石垣』
が見つかりました。
もうね、開幕から物騒なワードですね。
ですが、このワードは建築用語で土地活用でおなじみの東建コーポレーションさんのページに分かりやすい解説があったのでリンクを貼っておきます。
スーパー意訳して言いますと、『元々あったのをそのまま土の中に埋めちゃえー!』って感じです。決して人柱などではありません。(ここ笑う所です。)
今回の調査で、その埋め殺しがあったという事が発見されたのです。
まずは、現在の吉田城の発掘調査の状況を見てください。
石と土が見事に露出されていますが、基本的にはこれは見えません。
今回、調査中だからこそ現在、中を見ているという事になります。
つまり石垣の中身が今豊橋で見ることが出来る(但し、この位置は普段立ち入り禁止区域)わけです。
石垣の仲間で皆さん見たことないでしょ?これだけでもレアです!
別の方角から見ると…
昨日2022年10月18日の時点の豊橋公園内吉田城址の一部です。
さて、写真の左手前に一部がくり抜かれている少し大きめの石があります。
これが、今回の発掘調査で初めて見つかった石垣の一部です。
極端かもしれまえせんが、外側にもう一回石垣が組まれていると思ってください。
こういった方法があまり過去例がないという事で衝撃の事実が発覚したというわけです。
埋め殺しをする例としては、大きく2つ(って言ってた気がする。)
1.政治的要因
2.修復作業の効率化・コスト削減
です。
どちらかと言うと、2→1もあるので、ほとんど『1.政治的要因』が大きいです。
一番分かりやすい例として、豊臣→徳川の政治的要因があります。
これは、豊臣という地を絶滅に追い込んだ、徳川家康の所業です。あえて所業と書きます。
秀吉公の大坂城の石垣と堀を全部壊し、さらにその上に盛り土をした上で城を立てる。
これが埋め殺しです。完全に脱豊臣を掲げてやった家康の所業です。あえて所業と(以下略)
大坂城以外でも伏見城などにもみられます。だから徳川家康ってやつは…←
ですが、今回はその豊臣→徳川ではありません。
そうなると、今回の吉田城の場合は『2.修復作業の効率化・コスト削減』の方ではないかと推察されます。
さて、話を戻して、その石をまずは着目します。
この石が中にあったわけです。
埋め殺し、というわけですから、この石垣を含めて石垣が埋められていたという事が今回分かりました。
このサイズがまさかあるとは…。僕は無意識でこの上に立っていたとは…。
まぁ皆さんそうですよね。
位置を変えてみます。
石が2列に並んでいるのが分かりますか?
こういった形で石垣が並んでいる事が珍しいのです。
なので、以前組んであった石垣の外側にさらに石垣を組んでいるという事が分かります。
学芸員の方に、上を案内してもらいました。
向きを変えて同じところを撮りました。
こう見ると、2列に並んでいるのがよくわかるかと思います。
また、途中で昔と今が融合されています。一番長く掘っている所の辺りです。
ということで、この辺りで石垣が壊れたのではないかという推測。
で、その場に戻せばいいのですが、新しく石垣を作ったという、こちらも推測。
つまり、現状の推察で行くと
- 池田輝政城主時代(か?)に千貫櫓(今回の発掘調査の辺り)に石垣を築いた。
- 江戸時代に何度か修復作業を実施。(幕府に修復依頼or修復願いを出している?)
- 1707年の宝永地震から1854年の安政東海・南海地震までの間に起こった?
- 但し、3の間に修復をしたのであれば、幕府に何かしら出しているのでは?その文書は見つかっていない。(はず。)
- でも実際には修復(というか埋め殺し)をしている状況は見つかった。
という所でしょうか。
これから発掘調査と古文書の調査が進んでいくとさらに面白いのかもしれないです。
吉田城千貫櫓上から見た現在の吉田城本丸跡です。
10月29日(土)に現地説明会が実施されます。
現地説明会では、この千貫櫓上にも乗れるように調整しているそうです。(当日の状況次第ですが。)
実際にこの光景を見ることが出来るかと思います。
ちなみに、下も掘っているそうですが、下に出てきた石垣礎石は酒井忠次城主期のものかもしれないという推測をしていました。
2022.10.21.追記
すみません、この辺りを雑に記載して終わっていましたが、担当学芸員の方よりご指摘がありました。先ほど、取り消し線を付けて、礎石とさせて頂きました。大変失礼しました。
酒井?のは、石垣ではなく、可能性としては礎石の方が高いかなと。一石だけなので😅
— なかがわ@水中考古学・アクアリウム (@biwako_moguru) 2022年10月19日
歴史ってこうやって出てくる衝撃が魅力的なところでもあるんですけどね。
こうやって写真と文字で説明していくのですが、やはり伝えるのって難しいですね。(本末転倒)
10月29日(土)の現地説明会でぜひ学芸員の方の直接の説明を聞いて頂きたいと思います。
本当は学芸員さんと1時間ぐらい話をしていたのですが…ギュギュっと凝縮した感じで書かせて頂きました。
おわりっ!