みゅひゃぁ

100点という完璧を目指す『甲』の人生よりも、60点~80点の心身ともに少しゆとりのある『乙』の人生を目指したい。

歴史のコーナーで『水中考古学』の話を40分弱語りました。その補足情報記事。

どうも皆さんこんばんは!ダンです。

 

昨日の僕の番組内コーナー『歴史訪暖』では、豊橋市文化財センターの中川学芸員とお話をしました。

いつもは豊橋に関する色々なお話を伺うのですが、放送日が祝日だったのと、特に発掘調査を行っていないタイミングだったので、中川学芸員の専攻についてをお話伺いました。

番組全般の振り返りは昨日しました。

 

dan-ysd.hatenablog.com

 

今日は『歴史訪暖』コーナーの振り返りと、中川学芸員から写真データを共有して頂いたので、本記事に補足情報でお届けしたいと思います。

今回掲載される写真。ブログへの掲載は、中川学芸員より許可を頂いています。本記事に掲載されている画像の無断転載・保存はご遠慮ください。

 

 

そもそも『水中考古学』って?

皆さんもなかなか聞いたことが無い『水中考古学』についてです。

初めて聞いたことが多いと思います。

『水の中に沈んでいる遺跡』について調査・研究をする学問です。

でも『考古学』なんです。陸地の遺跡を調査・研究する学問を『陸地考古学』って言わないのにね。(完全に掴みばっちりでした笑)

実は日本での水中考古学専攻の先生は非常に数が少ないそうです。

 

今回焦点を当てたのが琵琶湖の朝妻湊跡

いつもは豊橋に関するお話をするコーナーですが、今回のメインポイントは『琵琶湖』です。あの滋賀県の日本で一番大きな湖です。

その琵琶湖の湖東にある朝妻湊跡についてのお話を伺いました。

 

これが琵琶湖、朝妻の写真。

 

およそ平安時代鎌倉時代に隆盛を誇った湊ですが、江戸時代には衰退をした所です。

日本史の教科書や、当時の法典である『延喜式』にも名前が掲載されるほどのメジャーな湊だったようです。

なぜ朝妻湊を調査するのか。それは、湊ですから、モノを運搬します。

モノが動くという過程で、運搬したモノが落ちてしまうというものがあります。例えば、食器や調理器具など。

 

じゃあなぜ滋賀県の湊の話を愛知県でするのか

今回の水中での調査を経て、愛知県(特に尾張地域)で生産されたものが朝妻湊跡に落ちている事が発見されました。

その行き先は、時の都、平安京や鳥羽離宮

名古屋と平安京を結ぶとなると、やはりパッと思い浮かぶのが東海道(現在の国道一号線を中心とした道)です。

だから、琵琶湖方面を向かうルートが全然思いつかない。

試しに、Google mapで名古屋と平安京跡を(有料道路を使わない車で行った場合で)結んだときにも、やはり琵琶湖方面にはいきません。

 

 

それがなぜ名古屋と京都の間に滋賀県が入ってくるのか。

この道、とりあえずルートを結んでいますし、現在は車社会なので、問題ないのですが、『峠』を越える必要があります。つまり、起伏の激しい道になります。

 

その一方で、名古屋からまずは北に向かい、東山道方面から行くと、比較的平地が多い為、峠越えをする必要がありません。つまり『急がば回れ』ですね。

その過程で、滋賀県の朝妻湊が中継ポイントになっている、と言う事です。

 

その朝妻湊跡で見つかったのは何か。

考古学は、産地と消費地は分かりやすい一方で、流通経路が分かりづらいそうです。

その経過が、水中考古学では分かってくるかもしれない。

今回まさに朝妻湊跡に残っていたわけです。

では、中川学芸員にお写真を頂いたので、見せびらかせたいと思います←

 

まずは、常滑焼に関係する写真。

常滑焼の甕。

常滑窯の鉢。

常滑窯の甕ほかが写っています。

※この写真の容量が11MBほどあり、はてなブログの制限上、10MB以下に抑えるため、縮小しています。

 

今回の写真を見ながら、『甕(かめ)』の使い方について、中川学芸員から教えてもらいました。

大きな壺である『甕』をどう使うのかイマイチ分かりませんでしたが、甕を今で言うコンテナのように扱っていたのではないかと言う話を伺いました。

勝手に壺とかは木の箱に入れていくのかと思っていましたが、目からウロコでした。

 

そしてこちらは、猿投窯の偏行唐草文軒平瓦。

こんなきれいに湖の中に残っているのです。

しかも人が立てるほどの深さの場所に。

今となっては、瓦は家の屋根に使われますが、当時、瓦の使用は大変高価です。

それが湖に落ちている理由として、例えば『流通の途中で割れてしまったので、選別する際に水(湖)の中に捨てた』というものがあるそうです。

 

その一方で、こちらは尾張の山茶碗。

茶碗ですから、皆さんもご飯を食べるあの茶碗を思い出してください。

それがくるっとひっくり返って、湖の中へ。見てもらってお分かりの通り、割れていたり欠けている箇所は見当たりません。(砂の中はどうなっているかは分かりませんが…。)

つまり『流通の過程で落としてしまった』可能性もあります。

 

こういった湖の中に落ちているものを調査・研究することが『水中考古学』です。

え、めちゃくちゃ楽しそう!と思って志望してくれる人が増えると良いです。(切実)

 

その中でも、この地域(三河)と結び付けてくれました

コーナーが豊橋市を中心とした東三河の歴史に関する事を謳っているのがコーナー意図ですが、中川学芸員が、その意図に沿ったものを持ってきてくれました。

 

この写真は、渥美窯の甕かと思われるもの。

 

先程までは、名古屋や猿投でしたが、こちらは渥美です。東三河です。田原です。

伊良湖東大寺瓦窯跡(がようせき)と言うのがあります。

伊良湖で作られたものが、東大寺の瓦として使われていた痕跡がありました。

今年の調査で、琵琶湖の中にその伊良湖(渥美)で作られたのかなと思われるものが一点だけ見つかりました。

『決して交流が深かったわけではない』一方、逆に言えば『交流がゼロだったわけではない』という事が分かりました。(日本語の問題のようですね。)

 

現在は、公共交通機関や車の進化、そして、行政区分はされているものの、往来は自由、かつ、容易になってきました。

豊橋米原が新幹線でビューンって行けると思いますが、当時は難しいです。

しかしながら、当時からモノの往来が盛んだった可能性が出てくるわけです。

 

実は立ち遅れている日本の水中考古学

世界でも水中考古学はあるのですが、実は日本は立ち遅れています。

逆に言えば、まだ見ぬ将来性が非常に高いかもしれません。

 

世界ベースで言えば、世界の水中遺跡をまとめた図説が出版されていたりします。

 

 

この図説には、今回掲載した朝妻湊跡での瓦の写真が掲載されています。

東三河の方でしたら、豊橋市まちなか図書館にこの本があるそうです。

 

今回はコーナーの補足情報として、頂いた写真をブログに掲載して、コーナーの内容を端折って掲載させて頂きました。

豊橋市学芸員さん、面白い人がたくさんいますので、コーナーの中で紹介をさせて頂ければと思っております。

 

おしまいに。もう一度お伝えしますが、今回掲載される写真。ブログへの掲載は、中川学芸員より許可を頂いています。本記事に掲載されている画像の無断転載・保存はご遠慮ください。

おわりっ!