みゅひゃぁ

100点という完璧を目指す『甲』の人生よりも、60点~80点の心身ともに少しゆとりのある『乙』の人生を目指したい。

『京都嫌い』読了 結局どこにでもある比較対象

どうも皆さんこんばんは!ダンです。

 

先日、5年間というの積読状態だった本を(ようやく)読破。

それが、『京都ぎらい』という本。

 

 

長い年月がかかったものの、実際読み始めたらアッという間に読み終わった。

まぁ大概の本なんてそんなもんだよね!(言い訳)

 

 

読もうと思ったきっかけ

新型コロナウイルス感染症により、遠出の外出ができなくなった昨今。

コロナ禍になる前は、1年に1回は京都に行くほどの京都好きだった自分。

コロナ禍になる前の夏にも京都旅行に行ってました。(2019年8月31日)

 

 

歴史が好き+建造物を見るのが好き=京都最強

 

ぐらいの謎方程式が出来上がるぐらい、京都へのモチベーションが高かったわけで、そんな自分がこのタイトルを見て、「は?この筆者京都嫌いなのかよwww」とか思って手に取った、なんなら、衝動買いだったわけですよ。

まぁすぐに読んでわかったけど、筆者京都出身だったわけなんですが…。 

 

本の感想

さて、本の所感をざっくりと以下に記載させていただく。

このブログのTOPに謳っているが、改めてここに予防線を張っておく。

 

今から書くことや考えは完全なる個人の見解です。

 

前述の通り、筆者の井上章一氏は京都のご出身。

いや、読み終わった後に井上氏を京都出身と一括りにするのは怒られそうである。(なぜ怒られそうなのかはぜひ本を読んで答えを探してほしい。)

 

とはいうものの、同じ府内生まれの方が「京都を嫌い」と言っているのだから、これはもう一種の身内批判である。

内部告発や身内批判ほど、勇気と覚悟が必要なことはないだろう。

だからこそその「京都の闇」を垣間見ることができる。

 

以前から、『京都の人は陰湿である』という冗談のようなことを耳にしたことがある。

その最たる例は、ぶぶ漬けである。聞いたことがある方もいるだろう。

ぶぶ漬けでもどうどす?」というのは、本当に漬物が出てくるわけではなく、「早く帰れやボケェ!」というものを皮肉めいた言い方をしたもの。

という面倒極まりないものである。

周囲に京都出身の知人がいないので、本当にそうなのか疑心暗鬼であった。

 

本の構成

洛中洛外というのは、歴史を紐解くと平安時代にまでさかのぼる。この記事では、洛中の説明を省略するが、今なお根付くこの問題に筆者が切り込んでいるのである。

そのような内容を筆頭に、洛中・洛外問題から入り、古都保存協力税(古都税)について、そして、筆者井上氏の体験談を踏まえた、嵯峨という地についての話などを盛り込んでいる。

 

主に前述の洛中vs(?)洛外の構図がシンプル、かつ、"京都"の気質を示す例だったという事で、人気に火が付いたのだと推察できる。

 

www.j-cast.com

 

観光客(外様)には分からないこの気質

僕みたいな『京都ダイスキー!』という思考回路が単純な人間には分からないことだろう。

両手で数えきれないほど京都に(洛中・洛外共に)行ったことがあるが、入った料理屋さんも、ホテルや旅館の方も、そのような考えを持っているなど微塵も感じなかった。いや、感じるわけがないだろう。

むしろそれを観光客に出すようなら今頃京都は荒廃した都市になっているに違いない。

 

なんならこの本が出版されたのが2016年なので、コロナ禍で何か考え事が変わったかもしれない。

が、1000年の歴史を持つ京都が、たかだか数年のコロナ禍で意識が変わることもないだろうと容易に推察できる。

 

とはいうものの、この本が出版され、一種の『内部告発』があったというその第一歩が面白い。

京都に住んでいなくても、本で書かれるあの特異性に『ほんとにそうなのか!?それはぜひとも見てみたい!』という気持ちに駆り立てられた。

むしろ書かれている光景が見たいので、再び京都に行きたい欲が増したぐらいである。

 

冷静に考えると他人事ではない

筆者の井上氏も書いていたが、この洛中・洛外問題を別のことに置き換えている箇所があった。

それは『ハゲ』と『ブス』である。

作中の文を引用することはしないので、気になった方は本を読んでいただきたい。

 

かなり過激な言葉で置き換えたなぁと読みながらに思っていた。

だが、ここまで過激ではないが、この置き換えに当てはまるものを見つけた気がした。

 

それは、愛知県=名古屋という考えである。

 

いや、なんなら他の場所も当てはまるかもしれない。

例えば、関東圏で言えば『東京とそれ以外の関東地方』『東京23区と23区外』などが当てはまると思う。 (関東圏に住んだことがないので、あくまで想像で物を語っているが。)

 

重ねて言うがこれは個人的な見解である。

愛知県は気が付いたら名古屋の持ち物になっていた。

いや、正確に言えば、なっていない。だが、全国ネットのテレビで愛知県が取り上げられると、「名古屋は~」と言われる。

移動時間を求められれば、「名古屋から〇分」などと言われる。

 

ただ、あたかも洛中洛外問題と共通のように話をしたが、大きな違いがある。

名古屋の人はそこまで優越に浸ることをしていない。という点である。

「当たり前でしょ?」とおごり高ぶることはしていない(はずである。)

いや、していないというよりも、おそらく「眼中にない」が正しい。

その雰囲気を出されるのがまた気に食わない。

 

勝手に負けた気分になっている自分がいる。そして本を読んで「我々は洛外の人と同じ考えだ」と勝手な共通意識を持ってしまう。
おそらくそんなことを考えて読んだのは後にも先にも自分だけだろう。

 

結局、深読みしたもの負け

この本を読んで思ったことがある。

それは『言葉を深読みした方が負け』である。

結局図太い精神の人間が最強なのだろう、という井上氏が読者に伝えたいことと全く意にそぐわない結論をこの本を読んで思ってしまった。

今日の記事のタイトルの通り、大なり小なり結局どこにでもある比較対象を考えてしまうと負のスパイラルに陥りそうである。

 

今回は偶然洛中・洛外という対象が生まれていたが、色々な比較対象があるだろう。

今回は土地をベースに出したが、それは土地のみならず考え方、生き方、物の尺度…。

すべてを比較するのは生きづらい。でも比較したい。もはや哲学である。

 

結局のところ、「考えることを放棄する」か「考えることをしない」のが正解なのかもしれない。

読み終わった瞬間の不思議なモヤモヤと謎の共通意識は、おそらくしばらく続くのだろう。

 

 

末文ではあるが、僕は京都が好きだ。この本を読んで京都が嫌いになったわけではない。なんなら洛中にお住まいの方、そして、洛外にお住まいの方と友達になりたいぐらいである。

洛中の方の「うわ!本当にいたんだ!」と言いたいし(マジで怒られそうですが)、洛外の方なら「その気持ち、わからなくないです!」を言いたい。

京都大好きだから、どうかこの記事を読んで怒らないでほしい。

そんなことを〆にして、参考になるかわからないが、本の所感とさせていただく。

 

そんな感じで!ここまでのお相手はダンでした☆